鏡餅は、なぜ「割る」のか。――鏡割りと、餅を焼く道具の話
鏡餅は、なぜ「割る」のか。
――鏡割りと、餅を焼く道具の話
なんだかんだで松の内も終わって、ようやくお正月ムードも落ち着いてきましたね。
お雑煮を食べる回数も減ってきて、次にやってくるのが――そう、鏡割りです。
この時期になると、「ああ、お正月も一区切りだなぁ」って、なんとなく感じませんか?
でも、ちょっと考えてみたんです。鏡割りって、ただの「行事」ってだけじゃないなって。
そもそも、鏡餅ってなんなんだろう?
鏡餅って、ただのお餅じゃないんですよね。
年のはじめに、年の神様をお迎えする。その“居場所”を作るのが、鏡餅。いわば神様のための「座布団」みたいなもの。
だから、「食べるための餅」でもなく、かと言って「お正月料理が豪華かどうかのひとしな」とか、「ごちそうがあるかないかのひとしな」って話ともちょっと違う。
所謂、迎える姿勢じゃないかって、と言うのも‥‥‥
「せめて、餅だけは」──笠地蔵のおじいさんの言葉
で、ふと思い出したのが「笠地蔵」の話。あの中で、おじいさんが言うじゃないですか。
「せめて、餅だけは」
あれって、「お正月にごちそうを食べたい」って意味じゃないですよね。
「お正月のごちそうは用意できないかもしれないけど、せめて餅だけは、鏡餅だけは年神様にお供えしたい」――そんな、気持ちからの言葉。
食卓がにぎやかかどうかじゃなくて、「ちゃんと年を迎えたい、神様をお迎えしたい」っていうところに、重きが置かれてるんだなって。
「割る」と「切る」は、ちょっと違う
鏡割りって、実は包丁で切ろうと思えば切れるんですよね。でもそれを「鏡切り」とは呼ばない。あくまで「割る」。
この「割る」って言葉が、なんとも奥ゆかしいというか。「切る」って、線を引いてパキッと分ける感じだけど、「割る」って、どこでどう割れるかまでは決めきらない。ちょっと“委ねる”って言うか何かやんわりした別の感覚がある気がするんです。
腹を切ると腹を割るのも違いますもんね。
どこか割るって役目を終えた鏡餅を、静かに手放すような、そんな優しさも感じるんですよね。
料理って、言葉ひとつで印象が変わるなって
これって、料理にも似てるなと思っていて。
「焼く」「炒める」「火を通す」――言ってることは全部「加熱」なんだけど、言葉が違うと関わり方も変わる。
「焼く」なら、表面の変化に目を凝らすし、「炒める」なら、ずっと手を動かし続ける。「火を通す」になると、またちょっと違ったような感じもして。
不思議だけど、料理って、行為そのものよりも“どう呼ぶか”で印象がガラッと変わるんですよね。
で、鏡割りのあとの餅はどうするかっていうと
雑煮じゃなくて、お汁粉で食べることが多いです。ただ焼い食べてもいいのに、おしるこにするってところが雑にもしないって言うか‥‥‥そこに「扱い方」がにじむというか。
鉄のフライパンで、餅って焼けるの?って話
あ、そうだ。これ書いててふと思ったんですけど、「鉄のフライパンで餅は焼けない」って思ってる方、結構いるかもしれませんが、焼けます。むしろすごくいい感じに焼ける。
やり方は簡単で、油をひかずにそのまま置くだけ。するとぷくっとふくらんで、表面がいい感じに色づいてくる。なにも足さなくても、ちゃんと焼けます。
うちのフライパン、実は鉄だけなんです
ちなみに、うちのフライパン、表面加工とか何もしてないやつなんです。素材は鉄だけ。
だから、空焚きしても耐えられるし、油ひかずに餅も焼ける。
何かを「足していない」道具って、変に気を使わなくていい安心感があるのが気に入ってるって言う方もいらっしゃいます。
「鉄フライパンは貧血にいい」って本当?
あと、よく聞かれるのがこれ。
↓↓
「鉄フライパンって、貧血にいいの?」って。
うーん、たしかに素材は鉄だけど、そこに過剰な期待は禁物です。出てくるのは“非ヘム鉄”だから、即効性はないです。即効性を求めるんだったらサプリの方がいいと思います。
言ってみればエスカレーターを使わず階段を使うようなものです。鉄フライパンを使うのはエスカレーターのような感覚ではなく、地味に階段を上がる。でも確実にや役に立っているって感じです。












