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あじねフライパン発行 第270号/2020/11/26)
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今回も引き続き牡蠣についてを牡蠣ます。
違った!
書きます。
前回と同じギャグでした(笑・・・・)
珍しく、同じ話題で第二弾を書きます。
なんでか?と言うと、発見したんです。ある事に!!
それは・・・・・
最後に書きました。今回はもったいぶらさせてください。
養殖って、よくよく考えてみると”誰かが何かのため”に人工的に作った物です。
じゃあ、その”誰かが何かのためか”を考えると・・・・・
水産業の方が
・美味しい牡蠣を消費者に安定的に届けるため
・養殖によって生活を安定させるため
・魚の保護と温存
など色々考えられます。
でも、前回でも書きましたが、牡蠣養殖は海に柵を作って、そこに入れておけばオッケーって話じゃないんです。手間も設備も技術も要ります。
そこには困難があります。
じゃあ、その困難を押して誰がやったのか?
と調べていくとそ三陸の牡蠣養殖には幾人かの方の名前が出てくるんです。そして、どうもこの方が先駆者なのでは・・・・
と言うのが水上助三郎という大正時代の方です。
こう言う歴史の話って、興味があれば面白いんですが、興味がなければ読む気にもなれないと思います。
でも、ちょっとだけお付きあいください。
今、大きな産業になっている三陸のカキ養殖の開発は、実は大失敗から生まれています。
こう聞くと、ちょっと興味出てきませんか?
話を続けます。
さっき書きました水上助三郎は、三陸の方です。
若い時分は塩製造とか畜産とか、色々なものに手を出します。
でも失敗と不運の連続です。
伝記があるらしいのですが入手出来なかったので、街のホームページなど色々な物を読んで、つなぎ合わせた情報ですが、どうやら失敗続き・・・・。
こう聞くと、耳が痛かったり、身近にも思い当たる人がいませんか?
水上助三郎は、後には実力者となりますが、若かりし時は何処にでもいる若者だったかもしれません。
そう思うと親近感が湧きます。
水上助三郎の失敗を挙げると書ききれないので割愛します。興味のある方は調べてみてください。
で、ついに資金がつき、全額借金によって作った船でオットセイ猟に出ます。
ここでやっと成果が出ます。働き始めてから10年程たった時期です。
ここから頭角を表していくのですが、まだ牡蠣養殖はしていません。
ちょっとここで当時の社会情勢を書きますと、三陸地方はその地形から各村が小さくて発展しにくく、またどうも既存の権利者とそうでないものの間には大きな差があったようです。
これに危惧し、そして三陸の村をなんとかしたい、働いている人達の生活を何とかしたいと考えていた。
時を同じくしてオットセイ猟も禁止となり、養殖業に着目します。でも、牡蠣じゃないんです。
うなぎです。
このうなぎ養殖ですが、どうも上手くいかない。
と言うのは、うなぎは丸々と成長するのですが、これがよく逃げ出すんだそうです。
この逃げたうなぎを捕まえた者から買い取ったりして、それでも続けます。
そして10年くらい続いたある日、三陸に台風が来ます。
なんと、この台風で養殖壁が壊れ大損害。今の貨幣価値で億位の損害をだします。また困難です。
しかも損害は水上助三郎だけに起こったことではなく、漁村、農村、街全体、三陸全体も大きな被害が出たそうです。
当然うなぎも逃げ出す。
普通なら打ちひしがれそうですが、水上助三郎は違いました。
その壊れた養殖壁に牡蠣の稚貝をいるのを見つけ、これだ!!!とカキ養殖を始めるんです。
と言うのは、アメリカで牡蠣が人気だったのを知っていたからです。
そして技術開発をしつつ三陸の牡蠣は発展し、今では日本全国の種苗としても、またアメリカへの輸出としても発展しています。
50年前フランスで牡蠣が、ウイルスで全滅した時がありました。この時白羽の矢が立てられたのも三陸の牡蠣です。
三陸の牡蠣が、このウイルスに強かったんだそうです。つまりはフランス料理も救った訳です。
震災の時「今度は我々が救う番」とフランス料理会から三陸に援助があったことからも皆さんもご存知の事と思います。
水上助三郎の後も養殖技術は高められ、三陸を助けた者がいます。
その中に宮城新昌という方がいらっしゃいます。
この方は海に出る時は、水上助三郎のお墓に手をあわせる程と、今回参考にしました牡蠣礼讃の著者畠山さんも本で書いています。
私は、カキフライはご馳走です。
なので「晩ごはんはカキフライ」と思うと、午後からワクワクできる体質です。
その牡蠣フライを作る牡蠣は、ピンチのどん底から発展したものだったと思うと、
上手く行っていない時とか、
子供が落ち込んでる、
ダンナがへこたれている
そんな時に牡蠣フライを作ってみてはと思います。
だって美味しいのを食べると元気でますし、その時「水上助三郎に比べたら、そんなの小さい小さい」って、吹き飛ばせます。
だって三陸の牡蠣って、揚げても焼いてもうまいですからね〜〜〜。食べる強壮剤です。
プラス、そんな言葉を掛ける事ができるあなたの評価も上がるってもんですよ。ここ重要です。
料理屋さんから教えてもらった美味しくする方法を伝授します。
牡蠣を油に入れたら、その牡蠣の衣が固まるまで一切触れない事です。
触れて良いのは、ひっくり返す時と牡蠣を油から上げる時のたった2回だけ。
これ意外に守れないんですが、知ってると違うもんです。
うちの揚げ鍋で揚げてください。美味しく出来ます。
次はレシピの紹介です。
ここまでくれば、今回のレシピは、牡蠣フライ!!!!
じゃありません。(笑)
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鉄フライパン屋の楽しいレシピ
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ここまで話したら、料理は牡蠣フライでしょ!!!ってなりそうなもんですが、なりません。
今回作るのは、牡蠣カレーです。
なんで牡蠣カレーなのかって言うと、その水上助三郎たちが育てた牡蠣を広めるためにパンフレットにしたひとつが牡蠣カレーだったんです。
それは今から100年ほど前の話です。
100年前と言ったら大正時代です。
大正時代の言葉で言ったら、ハイカラな味です。ぜひ、その味を楽しんでください。
と言いつつも・・・・・
水上助三郎がレシピで言っている牡蠣の量が多いんです。
なので、ちょっと滑らかになるように玉ねぎを入れたバージョンも考えましたので、オリジナルと一緒に食べ比べて楽しんでください。
出来上がりの写真はこちら
よかったら見てください。
↓ ↓
https://ajinefrypan.com/kakicaree.html
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詳しい作り方とポイント
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【材料】2人分
カキ 15個位
玉ねぎ 1/2個
豆乳 300cc(牛乳でもOK)
バター 15g
カレー粉 大さじ1
米粉 大さじ1(小麦粉でもOK)
塩 小さじ1
しょう油 小さじ1
コショウ 少々
油 適量
●調理時間 意外と短い!20分程度
カキは優しく水洗いしてザルにあげておきます。
玉ねぎを薄くスライスします。
フライパンに油を入れ熱し、煙が出てひと呼吸おいたら玉ねぎを入れ
しんなりするくらいまで炒めます。
一旦炒めた玉ねぎをボウルに移してそのままのフライパンに更に油を足し、
再び煙が出てきたらカキを入れ中火で焼きます。
このときあまり何度もひっくり返さず(ポイント)
表2分、裏2分位焼いて軽く塩、コショウをします。
フライパンからカキを取り出し
出てきた汁はそのままにして、バターと豆乳を入れ、そこに玉ねぎを戻し
カレー粉、分量の塩を入れ混ぜながら弱火で炒めます。
そこにしょう油を入れ(ポイント)、次に同量の水で溶いた米粉を入れダマにならないように混ぜたら
先程のカキを戻し
少しだけフツフツとして、出来上がり!
出来上がりの写真はこちらに
↓ ↓
https://ajinefrypan.com/kakicaree.html
今回使ったフライパンはこちら
↓ ↓
https://ajinefrypan.com/23frypan.html
オリジナルは牡蠣を30個ほど炒め、軽く火が通ったら
フライパンからカキを取り出し
出てきた汁はそのままにして、バターとコーンスターチまたは小麦粉、そしてカレー粉に200cの牛乳と塩を入れ
適当な濃さになったら、さっき炒めた牡蠣を混ぜて出来上がり
引用:牡蠣礼讃より
材料
カキ 30個位
牛乳 200cc程
バター 大さじ3
カレー粉 大さじ1
塩 適量
ぜひ、作ってみてください。
最後までお付き合いくださりありがとうございます。
追伸
今回、水上助三郎についてを書きました。
最後にお伝えしたいのは、前で書きました「ある事の発見」です。
水上助三郎は、始めオットセイ猟に出ていますが、その後は養殖業を行っています。
牡蠣以外、わかめ、鮑・・・特に鮑は”吉浜の干し鮑”として有名です。
水産業としては一貫していますが、実は行動は正反対に変わっています。
獲りに行って売る
↓
育てて売る
こんな感じです。
三陸はリヤス式海岸の地域です。
リヤス式海岸は、無数の川が海に流れ込む小さな三角州で出来る地形です。
この地形に小さな街ができたのが三陸地域です。これは小学校の時に学びました。
一方、東京、大阪、仙台は大きな三角州からできた街です。
大きい街と小さい街では、大きい街は遥かに発展が進みます。これは仕方のない事
なの?
それ本当???
って水上助三郎は思ったんだと思います。
三陸の川は、北上高地から直接海に流れ込む川なので山の養分が海に届きます。
という事は、プランクトンが発生しやすく、結果海が豊かということです。
しかも入り組んだ岬は養殖には好都合の地形です。
短所は長所だった。ここに気づいたんじゃないかと思います。
ちょっと話は変わりますが、よく個性を聞く時、長所と短所はなんですか?って話がでます。
長所は文字通り良い所、短所は悪い所です。
例えば、レストランで注文する時、直ぐに決められる人となかなか決まらない人がいます。
直ぐに決められる方は、決断力があると良い風に評価されます。
その一方、なかなか決められない方は、グズとして良くない評価が下ります。
でもね、その人が「私は一瞬の感情で流されずに判断ができるタイプです」って言ったらどうでしょうか。
グズが、一気に良いことに早変わりです。
リアス式海岸の三陸の短所を、もっと広い視野で見れば北上高地からの栄養が流れてくる場所。
だから養殖場がつくりやすいとして長所として考えた。それはうなぎが証明しています。
いや、それだけじゃない。
長所短所を考えず、その地域の個性を知り、その個性を何で活かせるのか、どうやって伸ばせるのかを水上助三郎は行なっていたんじゃない?
水上助三郎の言葉で言うなら、「個性を活用すれば結果長所、個性をなにもしなければ結果短所。元々からの長所短所はないよ」と言うと思います。
でも、それを一番やっていたのは奥さんのソデさんかもしれません。
助三郎の数々の失敗を、バイタリティーとして考えた訳ですからね。
ソデさんが凄い!!!
私の憶測ですけど。
この個性とは、地域も養殖も、会社なら部下や後輩、家庭なら夫婦や子供も、もちろん調理やお料理も同じかもと思います。
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